こんにちは。ちゃんこです。
今日は自分語りしようかな。と。
私の職歴についてです。
今私はコンビニ店員をしています。
その前は……。
期限付きの中学校の音楽教員をしていました。
そんな私はなんでコンビニ店員をしているのか……。
ここからは大学生時代からの6年半くらいの話をさせて頂きます。
私のブログ史上最も長い文ですがお付き合いいただけたら、と思います。
何度も読み返しましたが、誤字脱字あるかと思います。暖かい目で読んでいただけたら、とおもいます。
※一部、地方名がでています。ネガティブな内容が含まれますが、批判しているつもりは無いです。万が一不快に思われた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。
※一部、センシティブな内容が含まれますので、ご注意ください🙇♀️
・大学生時代(前半)
中学生の時、音楽の先生にコーラス部のスカウトをうけて歌に魅了された私。中学校3年生の冬から音大を目指しました。
そして晴れて音大に合格。このままプロになろうと思ってました……が、現実的にはプロで食べていくのは難しいなぁ、と思い、何となく教職を履修。
最初は本当になんとなくでした。
入学して数ヶ月経って……収入が安定してるから、という理由で本格的に勉強をしました。ここから誰よりも早く準備を進めていました。
そこから2年生の時、講義も頑張っていましたが、高校で教員をしている父親から「ボランティアやると面接で話せる内容増えるぞ」と言われて学生ボランティアに登録。1度しか機会はなかったですが、冬休みに小学生の宿題の手伝いをしました。
しかし、その1度きりで他のボランティアにはなかなか参加する機会がありませんでした。
それから数ヶ月経った大学3年生の時、掲示板でボランティア募集の張り紙が。しかも私の母校の小学校。
これは挑戦するしか無いな、と思い学生課に行って登録。
ここから人生が変わります。
学生課にボランティア登録して数ヶ月後、大学の実技試験当日だったのは覚えてます。
1本の電話が。
ボランティア募集したよね、お話したいから都合のいい日教えてくれるかな?
というボランティア先のS小学校からの電話。
二つ返事で数日後にお話し合いすることになりました。
そして、お話し合い当日。
教頭先生と校長室でボランティア内容について話しました。
その時の話の内容は
・2年生のとあるクラスの子どもたちの授業中の話し相手になって欲しい
・中休みとか遊ぶ機会があるのでスーツではなく、パンツ姿で来てね
との事でした。
授業中の話相手……????学習支援じゃなくて……??
正直、業務内容に関してすごく疑問でしたが、とにかくやってみよう、と思いました。
そして、ボランティア業務初日……。
言われたクラスを見に行った途端衝撃が走りました。
そこにいたのは
必要以上に騒がしい子どもたち。
担任の先生の制御が全くきかない子どもたち。
そして、群を抜いて凄かったのは……。
授業中に関わらず、練り消しを粘土代わりにして遊んでるK君とR君の姿がありました。
なんだこれは。
どうしたらこんな子供が育つんだ。
なんで???
そんな疑問が頭を駆け巡りました。
人生で初めての衝撃でした。
後に先生方にお話を伺ったところ、私が住んでいた地域は昔から治安があんまり良くない地域で、教育困難校としても引き合いに出されるくらい一部の先生方からは有名でした。
そんなことを知らずにボランティアに身を投じた私でしたが、これも先生になるため、安定した収入のため、と最初は思っていました😅
最初は不純な動機だったんです😂
……とは言え、やるからにはきっちりとこなしたい私。子どもたちとピアノや歌で交流し、ボランティア日誌を付けながら日々奮闘していました。
ある日、どうにもこうにも子どもたち、特にK君とR君の勝手気ままな行動が目にあまり、いきづまってしまいました。
どうしてあの子達は授業中であるにもかかわらず、立ち歩き、遊ぶのか。
自他ともに認めるほどクソ真面目な私にとっては信じられませんでしたw
そこで、まずは「授業中 歩き回る 遊ぶ」でネット検索してみました。
そこででてきたのが『ADHD』という単語でした。
ADHD……そう言えばそんな単語を大学1年生の発達心理学で学んだよな…………。
くらいの知識しかなかったので、発達心理学のレジュメや教科書を漁り、調べてみました。
ちなみにADHDとは……。
ADHDは、注意欠陥多動性障害とも呼ばれ、不注意(集中力がない・気が散りやすい)、多動性(じっとしていられない・落ち着きがない)、衝動性 (順番を待てない・考える前に実行してしまう)の3つの要素がみられる発達障害のひとつです。ADHDはこれらの要素の現れ方の傾向が人によって異なり、「不注意優勢型」「多動性・衝動性優勢型」「混合型」の3つのタイプに分類されます。(ADHD(注意欠陥多動性障害)とは?症状・特徴や子供との接し方・行動リスト|[LITALICOジュニア]より引用)
正直、このような障害との出会いは刺激的でした。私にとって知っている障害は目に見えるものばかりでしたので、こういった目に見えない障害、生きづらい子どもたちの葛藤があったのだと思いました。
しかし、よく考えたら不思議に思ってた同級生の謎とか色々解明されて、
「あ。私が6年生の時に算数を教えてあげてたあの子は学習障害だったのか」
とか
「あ。あのクラスに馴染めなかった男の子はアスペルガーだったのか」
と今までの不思議な気持ちから一気に視界が開けて、発達障害に関して今までにないほどの興味がわいてきまきた。
その後、ADHDの他にもアスペルガー症候群、広汎性発達障害、学習障害……様々な発達障害に関することを市民図書館やインターネットで調べ、独学ではありますが、知識を深めていきました。
その知識は今後の2年半の教員生活に生かされることになりますが、また次の話……。
さて、そんなこんなでボランティア業務に勤しんでいるうちに校長先生と仲良くなり、様々な交流をしていました。
校長先生とは話しが合い、教育観もとても共感してお話を伺っていました。
そして、大学3年の春休み、「来年度から有償ボランティアとしてら働かない?」との声がかかりました。
今まで無償でもいい経験をさせて頂いていると思っていましたが、正直このような形で続けられるとは思わず、とても嬉しかったです。
そして、私の教員になりたい、という気持ちが今まで以上に真っ直ぐで、真剣なものになりました。
生きづらさを感じている子供たちの第2の居場所になれるようなそんな空間を作りたい。
中学校で働くよりも小学校で働きたい。
そんな気持ちが芽生え始めました。
・大学時代(後半)
小学校で働きたい。ボランティアで生かしたこの経験は強みになる。
通常学級にいて生きづらさを感じた子供たち全員でなくても、私に会ったら心が安らぐんだって思ってくれるような気持ちになって欲しい。
そんな気持ちを抱き、抑えられなくなってきた私は、教職の授業で私のレポートを評価してくれたことがきっかけで仲良くなったA教授に相談しました。
そこで提案されたのが教育大の大学院の進学でした。
A教授の知り合いがいるとの事でそこでゼミに参加して繋がると良いよ、との事でした。
さらに大学院にいくと博士号がとれるから、教員免許も特別なものになり、初任給も弾む、との事でした。
当時、今の主人とお付き合いしているときで、何だかんだで親に反対されていたんです(何だかんだはいずれ話しますw)。
そのため、2人でこっそり結婚して既成事実を作ってしまおう、なんて考えていた時期でもありまして、将来お金も必要だと思ってたのでこれは頑張るっきゃない……なんて考えていました。(今思えば子供過ぎるなぁ……なんてw)
そこで安定した小学校教員になるには大学院に進学するしかない。
そんな気持ちでその教育大の教授のゼミに転がり込みました。ちなみにそのゼミでは小学校の先生を目指す学生達がいました。
全く知らない人達のところに全く関係がない私が行く、なんてとても勇気が振り切ってないと出来ないことでしたが、当時の私はとにかく確実に小学校の先生になるんだ。そのためにはしっかりと勉強するんだ、と思い食らいつきました。
スウェーデンの教育事情の英語の記事や古い教育雑誌、様々な難しい情報をしっかりと読み込み、深夜まで寝る間を惜しんで、さらにボランティア業務、教育実習と並行しながらのレポート作成。
今では考えられないような努力を重ねていきました。
しかし、周りのゼミ生からは煙たがられていました。そりゃそうです。全く関係の無い部外者が自分たちのゼミに入ってきているんですから。
しかも私は声楽専攻。傍から見たら歌さえ歌っていればそれで良い、と思われていても仕方ありません。というか、教授が「ピアノ教えてもらえばいいべや」とゼミ生に言った時、「え。声楽でしょ?」と言われたのでピアノすらも弾けないと思われていました。もっと言えば私立大学でしたし、音大生でしたので、お嬢様に見られたのでしょうね。
それが顕著に現れたのは夏休みの前の事です。
教授の家で焼肉ゼミなるものをする、ということで私も教授の家に行って参加する予定でした。
ちなみに、このゼミに参加して大学院受験のテーマを決めないと間に合わない、ということでもありました。
本来はもっと遅めに受験ができる予定でしたが、それは教育大の生徒のみの受験だったそうで、一般的は夏休み明けすぐあたりの日程で受けないとそのあとは無い、との事でした。それを知らされてなかった私は非常に焦っていました。
そんな大事なゼミに参加しなければ間に合わない私はゼミ生に教授のご自宅がどこにあって、何時に開かれるのかメールで聞きました。(LINEが普及していましたが、そのゼミ生のLINEを知らされてなかったんです。ここから気がつくべきでしたね……😅)
しかし、まてど暮らせど返信は来ない。
ついに予定日の前日になってしまいました。
途方に暮れた私は奥の手で教授にメール。
しかし、当日の朝になっても来ない。
私は困りました。というより、とても悲しかったです。
今までどれだけ時間を割いてゼミに参加したのか。
声楽のレッスン、ピアノのレッスン、教育実習、ボランティア、そしてゼミのレポート作成。全て並行して行いました。
寝る間も惜しんで取り組んだ結果、煙たがられてしまい、声楽だからピアノは出来ないんでしょ、と馬鹿にされ、最終的には、大袈裟ですがハブられました。
こんな人達が小学校の先生を目指す世の中なんだ。こんな人達を許す人が先生を育てるんだ。
なら良い。私自身の力だけで小学校の先生を目指す。
私は大学院進学を諦めました。
私は紹介してくださったA教授に事情をしっかり話して謝り、期限付きの教員をやりながら通信大学で小学校教諭の免許を取ることを伝えました。
勿論、大学院に行くつもりでレポート作成に勤しんでいたので教員採用試験は全く勉強出来ず。一次試験を落としています。
その後、期限付きの教員をやるならどこにでも行けるように今のうちにお金を作らなきゃ、と思いボランティアの学校のすぐ側にあるセイコーマートでホットシェフのバイトを始めました。
※ちなみに……。
北海道で期限付き教員をする、ということは北海道内全ての学校が対象となります。
基本的に空いている所に期限付き教員は入りますので、いつ、どこで採用されるかは分かりませんし、北海道はとても広いです。
本州の方でも分かる画像で説明させていただきますと以下のようになります↓
この画像からも分かるように、広いです。それをわかった上でまたさらに色々お話させていただきますのでご了承ください🙇♀️
残りの大学4年生の生活はバイトバイトボランティアバイトボランティアバイト…の日々でした。
もちろん、大学での勉強も頑張りました😂
その間に主人とのお付き合いを両親に認められる、という事もありましたがそれはまた別のお話……。
そして、期限付きのお話がないまま卒業式を迎え、ボランティアも1年半の業務を終えました。
・覚悟の一校目
卒業式を迎え、仕事場が決まっていなかったですが、家で通信教育の勉強をしながらバイトしていればいいかーと思っていました😂
そんな呑気に考えていたら1本の電話。
学生課から電話でした。
期限付きの音楽教員で2校話がある、との事でした。
友達と話すために大学の近くにいた私は急いで学生課に。
話を聞いてみると
1つは地元から300キロ離れた港町の高校
1つは地元から140キロ離れた田舎の小中学校
当時小学校教員を目指していたし、やはり近い方がいいと思い後者を即決。
そこで学生課を通じてD市のH中学校に電話。
業務内容としては中学校1年生の副担任を担当し、授業は音楽の他に家庭科、美術をやって欲しい。家庭科はほかの先生と組んでやってもらい、美術も3人で分担します、との事でした。
しかし、電話先で強く言われたのが
「うちの学校は家庭環境に問題を抱えた子どもや、子ども自身も重い発達障害などで通常学級に居れないような子どもが一時的に住んでいる施設があって、そこの施設から通う学校なんだけど……」
と言われました。
ボランティアで、経験し尽くした私にとっては事情が事情だったので
行けるぞ。
私に風が吹いてるぞ、と思いました。
調子に乗ってますね😅すんませんw
ほぼその日のうちに二つ返事で行くことを決め、ほぼ2週間くらいでバイトも辞め、引越しの準備を進めました。
そして3月末
初めての一人暮らし、初めての社会人、初めての教育現場。
期待と不安と胸に抱えながらD市に向かいました。
始業式と入学式、まず待ち受けていたのは個性的な子供たち。
ボランティアで見たような元気一杯の小学生、ちょっと大人しい中学生。
なんだ。普通じゃん。
ここで私は今までやりたかった音楽の授業をやろう。
今までの経験を存分に生かそう。
そんなふうに余裕をかましていました。
しかしそれは1ヶ月も経たずに砕かれます。
まず、先輩教員との連携がとれない。
全てが初めてだったので、相談しなさいなんて言われても何を聞けばいいか分からない。
分からないけどとりあえず行動する。
そして他の先生から怒られる。
美術も家庭科も人並みにしか出来ないから教科書をなぞるだけのつまらない授業になってしまう。うまく説明できない。
それがもう子どもたちには伝わってしまうので、結局舐められ、暴言を吐かれ、授業が成り立たない等いじめを受けてしまいます。
そうすると人間どうなるか分かりますか?
職場に行けなくなるんですよ。
でも親は甘えるな、頑張って続けろ、と嫌なら辞めちまえ、と突き放します。
そんな状況でいても立っても居られなかった主人は東京から北海道に移住をして同棲することを決意してくれました。
今でも彼の支えが無かったら生きては行けなかったと思います。
そうしてなんとか一学期を乗り切りました。
……が、夏休み明け事件が起きます。
生徒のいじめがエスカレートし、耐えきれなくなった私は音楽室を飛び出し、車に乗り、家に帰ります。
無我夢中で車を出し、そこそこのスピードで家に帰ろうとした時に
ドンッ
なんだと思い前を向くと……。
大破したボンネット、ハンドルからはエアバッグが出ていて、車からは煙が出ています。
今でもここから先の記憶が薄いのですが、教頭先生と事務の方、そして主人が来てくれて保険や警察の対応をしてくれたのを何となく覚えてます。
幸い、自損事故で壊れたのは車のみで、私も鞭打ちで済みました。
この時は流石に両親ともに来てくれましたが、
「主人君に甘え過ぎるからそうなったんだ」
とだけ言い、ものの10分くらいで帰っていきました。
その日も含め、数日休み、嫌な気持ちを抱えたまま出勤。
校長室で子供たちの形だけの謝罪があり、私はただただ暗い気持ちでその日を過ごしました。
しかし、仕事はしなければなりません。
とにかく学校で次の授業の準備をしなきゃ。
そう思い、放課後に授業の準備をしていたところ、同じ1年生を担当しているN先生がやって来ました。
N先生「どうだ?」
私「わかりません……でもやるしかないと思います……。」
N先生「もし、続けていく気があるなら、ちゃんこさんに足りないものを教えるわ。」
N先生「ちゃんこさんは生徒に怒れる。それは若い先生にとって凄いことなんだよ。若い先生は怒れないんだ。それは本当にすごいと思う」
N先生「でもね、怒るだけじゃダメなんだよ。アイツらは。俺も怒ることあるけどそのあとアイツらは絡んで来るだろ?」
N先生「アイツらはちゃんこさんと話をしたいんだ。ちゃんこさんはそれを怒ってしまうからアイツらはムカつくんだよ。」
N先生「もっと子どもたちと話しをした方がいいよ。俺らと話すみたいに。」
そう言ってN先生は職員室に戻りました。、
話す……か……。
どうやら私は頭が硬すぎたのかな……。
もっとこう、あの子達に歩み寄らなきゃ……。
そう思った私は次の日から人が変わったように子どもたちと話すようになりました。
最初は
「なんか最近ちゃんこ喋るようになったよな!」
「きめーんだよ!!馴れ馴れしくすんなよ!」
とか言ってたけど、日を追う事にどんどん話してくれるようになりました。
最終的には、他の先生方が聞き出せなかったような子どもたちの恋愛相談とか詳しく話してくれるように。
クリスマスとかには女の子達からクリスマスカードを貰いました。
「ちゃんこ先生のことが大好きな○○より」
あれは今でも宝物です。
そして、春休みを目前にしたある日……。
教頭先生から呼び出しをされました。
「来年度うちの学校に新しい音楽の先生が来ることになったんだが、隣町のS町で特別支援の担任を探している。挑戦するか?」
あの子達に私の半端な音楽の授業じゃなくて、経験者が教えてくれる。
寂しかったけれど、あの子達のことを考えて次のステージに進みました。
あの子達を動揺させないために、私の転勤は離任式まで伏せているのはとても心が痛かったです。
そして離任式のとき……。
あぁやっとこの日が来たのか……と思い起きると喉が痛い。体が熱い。
嫌な予感がして熱を測ると38度前後。
あぁ……やらかした……風邪ひいた……
なんて思いましたが、離任式だけはちゃんと行かなければ、と思い出勤。
赤い顔をひと目見られ、即病院に行くように先生方に言われましたw
そして診察結果は……。
インフルエンザでした😂
なんで、この時期に!いつやらかした!?
分かりませんが、とにかくなってしまったのでその日は出勤停止。
離任式はもちろん、職場の送別会に参加できませんでした😭w
後から伺うと担当した子どもたちは驚き、泣いていたそうです。
暴言を吐いていたあの子達がここまで私に対して想っていてくれるなんて、今でも感慨深いです。
女の子達の提案で貰った即席の色紙も宝物です。
そんなこんなで終わった一校目ですが、この経験は強みになりました。
ここで私は他の学校では得られないような経験をしました。
それは教員になる、という覚悟です。
ここで私は教員になる覚悟の大きさを知りました。
・絆の二校目
二校目の出発は主人との結婚からスタートしました。
一校目では施設に住んでいる子ども達だったので同棲、という形でも悪い方にはならないかな、と思っていたのですが、二校目は普通の学校です。
親御さんから
「若い先生が同棲……ふしだらだわ……」
なんて悪いイメージが着いたら私自身が学校に居づらくなる。
そんな事を考えて主人にLINEで逆プロポーズ。
主人は素敵なレストランで記念日に婚約指輪をパカってしてプロポーズをしたかったらしいのですが、それもなかなかタイミングが無く、出来なかったそうですw
そこで問題がもう1つ。
着任式までに姓を変えなければ、途中で変えたら担当する子どもが困る。
急いで近くの日で大安の日になっている日を探しまして、今から3年前の4月5日に婚姻届を提出しました。
急いで決めたので正直なんの思い入れも無いですw
去年なんかすっかり忘れていましたw
それよりも私達は付き合った9月18日を大事にしています😊
結婚の話にそれてしまいましたね……。
二校目は小さな町の中学校で、そこに入学する中学1年生で特別支援の生徒が1人いるのでその子の担任をして、さらにその子と2年生の特別支援の数学を教えて欲しい、との事。
また、その学校には吹奏楽部もあるので吹奏楽部の第二顧問として音楽の先生と一緒に働いて欲しい、との事。
中学生の頃の私の数学は40点代常連。
そんな私が引き受けていいのだろうか……。
不安しかなかったですが引き受けてしまったのは仕方が無い。やるしかない、と思い一生懸命に勉強する意気込みでした。
……しかし、蓋を開けてみると……。
なんと、特別支援の数学と英語を教える人はいるが、国語が居ない、とのこと。
校長先生と教頭先生ともう1人の特別支援の先生と話し合った結果……。
担任する子どもの国語、数学、英語を担当する事に。
今でも驚きを隠せませんw
これまでに音楽、家庭科、美術、そして今回は国語、数学、英語……。
最早なんの先生なのか分からなくなってきましたw
全教科コンプリートも夢ではありませんw
でも、やるべき仕事は最後まで責任持って引き受ける、という性分ですので、教科書を片手にノートを作り、一人の子のために授業をしました。その時の板書は以下の通りです。
その子が興味を持つ内容を常に考えていました。
その子のために国語辞典、漢字辞典、英和辞典、和英辞典、暗殺教室の数学帳、英単語集を買い揃えました。
また、45分びっちり授業は無理だったので、
- 最初の10分はウォーミングアップで好きな事をする。
- 25分間授業をする。
- 最後の10分は、音楽を流しながら国語なら漢字練習、数学なら点つなぎ、英語なら単語練習
という授業を、していました。
流す音楽はその子が好きなアニメやボカロの曲を流していました。
途中から道徳の授業も2人でする事になりました。そこで一校目で学んだセカンドステップという心理療法を真似て、人間関係の基本的な構築を学ぶ事をしていました。
その子とは最初の間は苦戦しましたが、一校目で学んだことを活かし、毎日楽しく過ごしました。
その子との授業も楽しかったですが、吹奏楽部での出来事もいい思い出になりました。
吹奏楽部の顧問の音楽のS先生はとてもいい先生で、空き時間の時に何度か授業を見せて頂いたりとか、実際に参加をしたりもしました。
S先生とは教育観も合い、吹奏楽部が終わったあとには必ず音楽の授業についてだとか、色々な事を質問して勉強させて頂いていました。
そして、吹奏楽部では吹奏楽経験のない私に好きな楽器で、子どもと一緒に演奏することを勧めてくださり、私はホルンに挑戦しました。
仕事しながらだったので上手さは……ですがw
また、その学校では教員採用試験近くになると、周りの先生方から協力頂き、一次試験に向けて勉強する時間が出来ました。
そのおかげで初めて教員採用試験一次試験に合格することが出来ました。
そして、二次試験ですが……。多くの期待を背負って挑みましたが、残念ながら不合格……。
しかし、音楽の教員は倍率が2桁が当たり前の狭き門です。来年こそは、と思ってました。
(ちなみに小学校教員になるための通信大学ですが、仕事、教員採用試験、通信教育という三足わらじは流石に無理だと思い中退。教員採用試験に受かってからまた挑戦しようということになってました)
また、同じ1年生で不登校の子が転校するという事態があり、一校目での経験をしてきたということで、同い年の担任の先生と一緒にその子の元へ。
ゲームが大好きな子だったので意気投合。
2、3回学校に来る事ができ、そのうち1回は私の教室で私の生徒と一緒に遊んだりゲームの話をしたりすることが出来ました。
他にも色々一校目で学んだことを活かして色んなことをやろうとして、その子を登校させてあげたいと考えていました。
しかし、その子はあくまでも通常学級の生徒。私は所詮期限付きの教員で違うクラスの担任。
私にできることは限られていて教頭先生と一瞬衝突しかけました。
でも、それは教員として時にはクールになることが必要だとあとから気付かされました。
あの時、教頭先生には少し生意気な事をしたなぁ、と反省しています。
そんなこんなで暖かな環境で過ごしていて年度末前、校長先生が
「やっぱりさ、ちゃんこさん、音楽教えたいべ?」
と言われ、次の転勤先を考える事に。
なるべく引越しはしたくないのでとりあえず近場の教育委員会に期限付きの登録。
しかし、近くでは見つからず、泣く泣く全道の教育委員会に期限付きの登録。
もうこうなったらどこにでも行ってやる。
国語でも数学でもなんでも体育でも教えてやる。
そんな事を考えていました。
その間に1本の電話が。
なんとオホーツクの教育委員会からの電話でした。
おおおおおおオホーツク!?!?!?
いやいやいやいや……どこにでも行くとは言ったけど……😂
※ちなみにオホーツク地方でで有名な網走は今の住んでいるところから約430キロ離れています。
オホーツクひとつ言ってもバス数本、地元に帰るJRもほとんど通じてない地域もあります。
主人は免許が無いため車を運転できません。
しかしここで逃したら道はありません。
そこで私は、住む場所くらい選ぶ権利もある、と思い
「中心部の網走市から車で30分から1時間ちょっとで通える範囲の学校であれば……」
と事情を話した上で持ちかけました。
当然その日のうちには決まりませんでした。
保留となりましたが、とにかくオホーツクに行く可能性が濃厚になったと思ったので2月下旬ではありましたが引越しの準備をし始めました。
そして数日後また電話が。
オホーツクからの電話です。
ついに決まった……!?
そう思いドキドキしながら電話をとりました。
「ちゃんこさん、あの、十勝地方に行きませんか?」
……は?????????
なんとオホーツクの職員から告げられたのは今住んでいる所から約260キロ離れた十勝地方のO町でした。
中心部からも近く、しかも伝えられたのは音楽教員、との事で教えるのは音楽と数学の補助のみでした。
もうこれは受けるっきゃない。
二つ返事で十勝に行くことにしました。
勿論、この経緯を周りの先生方に伝えたところ
「え!?オホーツクじゃないの!?!?」
「そんな話、聞いたことないんだけど!」
でした😂
まぁ、悪く言うとタライ回しですよねw
でも私にはそれしか方法がなかったので、お話を受け、離任するということを決めました。
数日後、O町の中学校から連絡がありました。
その学校は3学年9クラスの中規模校で、なんと吹奏楽部もあるので吹奏楽部の顧問もして欲しい、どのことでした。
吹奏楽部の顧問!!!
私は吹奏楽に関してはズブの素人でしたが、この1年間、音楽のS先生の下について勉強してきた。なんなら最後の方だったけど、S先生のご好意で指揮者としての指導もやらせてもらった。
不安はあるけど何とか食らいつける。
自分にとってこれはチャンスだ。
自分にとって好都合過ぎる条件だ。
しかし、任せてください、なんて言えなかったのでこれまでの経緯を話し、吹奏楽に関しては素人である、との事を伝えました。
電話越しに教頭先生は
「ちゃんこさんの他にも先生が2人着くから、その先生方も吹奏楽の経験あるから大丈夫」
また、校長先生からは
「うちの学校は新築3年目でして、とても綺麗な校舎です。先生方も明るく、去年赴任しましたが、とても楽しい職場です。生徒も多くいますが、とても元気で礼儀正しく、いい生徒ばかりですよ」
との事だったので、一応安心しました。
正直良い事づくめで少し不安はありましたが……😅
その旨をS先生に伝えたら、とても喜んでくださいましたが、少し表情を曇らせました。
「ちゃんこさん、うちの学校はこうやって小さい規模だから演奏する機会を多くすることで部活動として張合いを持たせてるけど、普通の学校はコンクールとかあるのよ。」
「コンクールの部活動は普通の部活動じゃないわよ。でも、小さい規模なら……」
と仰ってパソコンで検索をし始めました……。
「ちゃんこさん……この学校コンクールで金賞取ってるわよ……」
私は焦りました。
え?金賞?え?
しかもほかの経歴を見ると前任者はかなりの功績を残していました。
そんな金賞常連の学校にズブの素人の私なんかが行っていいのか……。
とにかく再度伝えてなんとか諦めるしかないのかな……と思い、次の連絡の時に
「貴校の吹奏楽部の功績を拝見させて頂きました。前にも伝えたのですが私は吹奏楽に関しては勉強不足です。そんな私が貴校の吹奏楽部で顧問をして頂けるのは非常に勉強になるし、是非引き受けさせて頂きたいのですが、親御さんは勿論、生徒たちに非常に申し訳ないことになると思うのです。それでもよろしいですか?」
と伝えました。
それでも教頭先生は「大丈夫」としか言わず、私は不安を抱えながら引き受けるしか出来なかったのです。
しかし、引き受けてしまったのは仕方が無い。
曲がりなりにも大学での教養系の成績は上位クラスだった。私は音大出身なんだ。
それにその学校には吹奏楽の経験者がいる。
その人たちを頼るしかない。
相談しまくろう。やるしかない。
そう思い、O町の中学校に行くことを決意しました。
そして、2度目の離任式。
1度目はインフルエンザで出席出来なかったですが、風邪も何も引かずに出席出来ました😂
子どもたちは勿論、親御さん、先生方から、惜しまれながらも笑顔で見送って頂きました。
一緒に1年生の副担任をして下さったF先生はPTAの送別会の時に
「ちゃんこさん、ちゃんこさんは熱い。熱くて真っ直ぐで、俺は好きだ。でもな、その熱さを受け入れれない人も中にはいる。でもな、ちゃんこさん。それを曲げないで欲しい。そのままのちゃんこさんでいて欲しい」
と仰っていました。
今でもこの言葉は心に刺さっています。F先生のおかげで私は私らしく居られます。
また、1番お世話になったS先生は
「ちゃんこさんはとても頑張り屋さん。その頑張りはいつか実るから。それを信じて進んで欲しい。これから本当に大変だと思うけど、どんな基本的なことでも良いから、メールでも電話でもしてきてね。頼ってね。」
と仰って私にホルンのネックレスをくださいました。
このネックレスはつけるのが勿体なく、飾りっぱなしになってますが、大事にとっておいてます。
そんなこんなで笑顔で終われた二校目。
この思い出は一生大事な思い出です。
今でも感謝の気持ちで過ごしています。
改めて本当にありがとうございました……。
私はここで1人の生徒と向き合うことで、教員として出来ることは限られてる。
限られてるからこそ私は最大限に子どもと向き合って真っ直ぐに教育をしていこう、と思いました。
教員として出来ることを学べた1年でした。
・運命の三校目
ようやくこの身の上話も最終章になりました。
ここまで12568文字。
長文になってしまい本当に申し訳ないです😂
もう少しで終わります。(多分)
さて、4月から十勝地方で働くことになりました。
約300キロ弱の大引越し。
急な引越しだったので、仕事の関係上、主人には今まで住んでいたD市にいてもらい、1ヶ月後位の5月に分割して引越ししました。
それまで私は一人暮らしです。
必要最低限の家電や荷物を持って行き、1ヶ月過ごしました。
新しい学校は伺っていた通りすごく綺麗で、音楽室も完全防音の練習室があって非常に立派。
まさに理想の労働環境でした。
また、新しい住居の環境もとても良く、D市とは比べものにならないくらいの大都会でした。(大都会は言い過ぎですねw)
勿論先生方も明るくいい人ばかりでした。
しかし、気になることが……。
「ちゃんこさん、D市から来たってことは十勝とは無縁……?」
「ちゃんこさんの出身はどこ?」
ん……?なんで十勝を強調するんだ……?
とりあえず私は十勝地方出身なので
「いえ、じつは○○の生まれで幼少期はそこで過ごしてたんですよー。親の仕事の都合てS市に行きましたが。」
と答えました。
すると
「あらそうなのー!!!そしたら懐かしいっしょーー!」
と笑顔で話が弾みました。
その時はとりあえずそれで終わりました。
また、不安要素だった吹奏楽部ですが……。
2人の先生方、前まで第一顧問と一緒にやってきたK先生、今年度から第三顧問として働くJ先生。この先生方と一緒にやることになりました。
K先生は前任者が離任されてから指揮を取っていたので、最初の入学式と新入生歓迎会はK先生がやることになっていました。
私はまず今後の予定を知りたかったので予定を聞きました。
……がお二人の記憶が曖昧だったためざっくりとしか分かりませんでした。
「まぁ、やっていけば分かるし、手伝うから」
と仰っていたので、分からないことは聞こう、と思いました。
そして着任式。
初めて会う子供たち。
まず人数が多い。今まで見たことがない人数でした。
そして返事が素晴らしい。挨拶もしっかりする。
今までの学校では考えられないような整った素晴らしい生徒達でした。
さらに言うと吹奏楽部も素晴らしかったです。流石金賞常連の学校。音一つ一つがキラキラしていて感動しました。
これからこの子達全員と音楽を楽しむんだ。
私も一生懸命今まで培った経験をフルに使って、更に今まで以上に勉強して授業を作っていかなきゃ……!!!
そう思い、毎日学校に残ってピアノの練習、授業の準備、授業のネタ集め……。
寝ても覚めても音楽一色でした。
そして最初の授業。
私は真面目に1年間のカリキュラムの説明をやってもつまらないと思い、PowerPointで自分の自己紹介をしました。
自分はどこで生まれて、どんなことをしてきて、どんなものが大好きなのか……。
今までで培ったトーク力で子どもたちの心をグッと掴むことが出来ました。
それからの音楽の授業は毎回子どもたちに人気で、音楽の授業以外でも子どもたちとは仲良く話していました。
ちなみに音楽の授業では……。
- 休憩時間中、音楽室に来たら楽しめるように音楽に関するYouTubeの動画を流す。
- 授業始まったら今日の授業内容を説明(子どもたちの見通しをたてさせます。)
- 子供に今日の授業の目標を発表
- 授業(ただ歌うだけじゃなくて、子どもに意見を聞いたり、ディスカッションさせたりしていました)
- 授業の最後は感想、自己評価を書いてファイルを回収。(ファイルは一人一人に感想のコメントを書いてました。感想は授業に関係なくても質問でも良いと伝えてました。)
ということをしていました。
人数が多く、一人一人にリアルタイムで話せなかったり、私と話したくてもなかなか話しかけづらい、という子どもがいたりしたので、ファイルの感想欄には必ずコメントを返してました。
無理な時はとりあえずスタンプだけ押して、ごめんねーって授業でみんなの前で話したりとかしてました。
そんな授業をしていましたので、勿論子どもたちからは「先生、先生」と毎日声をかけられて、楽しく過ごしていました。
勿論、吹奏楽部も初めてながら苦戦しましたが、先生方だけではなく、子どもたちと一緒に連携を取るつもりでできる限りのことをしました。
しかし、ある事件がありました。
吹奏楽部の保護者会である親御さんから声をかけられました
「あのね、ちゃんこ先生、うちの子、ドラムやってるんだけど、うちの子がちゃんこ先生の指揮がズレていてやりづらいと言ってるのよ……。あのね、先生が経験少ないのは知ってるし、一生懸命やってくださるのは有難いのだけれど、指揮がズレてるというのはちょっと…………。」
頭が真っ白になりました。K先生はほかの保護者の対応してます。もう1人のJ先生はいつの間にか退勤してます……。
とにかく子どもを不安にさせた事を謝り、これから特別指導にいらっしゃっている先生と2人の先生方と一緒にやっていきます、と伝えてその時は何とかなりました。
しかし、流石にショックでした。こういう申し出はいつかあるとは思ってはいましたが、まさかこんな早く実現するとは……。と思いました。
ただし、ここで私も引き下がる訳にはいきません。これは私だけの問題ではなく、学校の問題だ。とりあえず校長先生に報告しました。
吹奏楽部3人プラス校長先生で話し合いましたが、まだ私だけの問題。これが大きくなったら校長先生を混じえてお話する、ということになりとりあえず保留になりました。
もちろん、その親御さんを見返したかったので、車の中で運転しながら練習、放課後も少し時間使って練習しました。
その後、運動会など様々な吹奏楽部のイベントをこなしましたが、なんともなかったです。
この間、部活動があったので土日は出勤。休みはほとんどなかったです。
その合間を縫って私は教員採用試験一次試験に向けて勉強をしていました。
そして、また事件がおきました。
家に帰ってデザートを食べようとした時、電話が。
「ちゃんこ先生、親御さんからお電話があって、教育費に関してなんだけど……」
当時、私は1人で1年生の教育費の会計も担当していました。本当は1人で行いたくなかったのですが、周りも知ってるし、離任された前任者の資料もあるし。大丈夫大丈夫。と言われていたのでなんとか1人でやっていました。そんな状況で事件が起きたんです。
教育費を払っているのに払ってないって言われても困るんだけど
という内容でした。
私は1人でやっていたので1人で300人くらいの教育費を全てチェックも入れていました。
しかし、それに漏れがあったのだと思います。
その漏れが酷いもので、何度計算しても合わない、という事態になってしまったのです。
夜に出勤し、帰ったのは夜中の1時。
勿論その後は全く寝れませんでした。
結局合わないものは合わない。この件は保留することになりました。
学校を巻き込んでしまったので、ここで私は職員朝会で1度目の謝罪をします。
すっかり自信がなくなりましたが、生徒の前では明るく振る舞わなきないけません。とにかく必死で仕事をしました。
教員採用試験一次試験の直前まで毎日出勤し、仕事をしました。
本来はこの時期は早めに退勤して勉強したいと伝えていたのですが、なかなかそういう訳にもいかずに、辛かったですが、勉強して、授業準備して、部活動指導をして……と過ごしました。
そして、一次試験は無事合格。
二次試験は校長先生のバックアップの下、かなり勉強をして過ごしましたが、部活動やほかの業務も並行して行っていました。
この時は8月に吹奏楽コンクールの地区予選を控えていました。その予選はちょうど二次試験日。私は出演できないので、K先生が指揮をとる事になりました。
この時またもや事件が。
コンクールに出場するために何人か子どもを補欠にしなければ行けませんでした。
それが金賞になるために必要なことだったんです。
私は子どもを納得させるためにオーディションをするべき、と思っていましたが、周りはそれはやったことないし、別にそんな事しなくても説明するだけでいい、という事だったので、私はとりあえず先生方を信じて補欠の子どもたちに話しました。
それで済んだ話だと思いました……。
が、夏休みの時、補欠の子の1人が体調不良で早退。親御さんに連絡し迎えを頼みました。
その時でした。
なんでうちの子は補欠なんだ。
前の先生の時はオーディションしていたのに(オーディションしてないです)
技術でダメと言われるなら諦めがつく。でもそうじゃないから怒ってるんだ。
この前の初心者講習だって、うちの子は経験者なんだから必要なかったじゃないか。しかも全員に声掛けてないんだろ?どういうことなんだ。(この件はK先生と話し合って必要そうな子どもにだけ声をかけて講習に参加できるなら参加させてみる、という意味でやってました。嫌なら不参加にするだろ、という考えだったんです。)
という内容でした……。
ちなみに私1人でこれを聞きました。
本来は空いているJ先生が対応する、との事だったのですが、いなかったので私1人で対応したんです。
今思うと八つ当たりとしか言いようが無い内容でしたが、色々な事件があった私にとってはズタボロだったので、
申し訳ありません。私が全て悪いです。申し訳ありません
としか思えませんでした。
そんな事件も通して、毎日毎日、休日は夕方まで部活をし、二次試験の勉強をしながら私は日々を過ごしました。
この時、7月の休みは1日たりともなかったです。勿論、二次試験の移動日ギリギリまで仕事をしていました。
そして、コンクール予選ですが……。
金賞取りましたが、予選落ち。いわゆるダメ金。
私はコンクール当日に二次試験が終わり、コンクール会場に向かうことが出来たので、子どもたちに謝りました。
あの時は子どものことを考えると本当につらかったです。
そして、コンクール終わり、1日休んだ後、当たり前のように部活動はありました。
私はせっかくコンクール終わったし、K先生に午前中は個人練習で、午後は映画鑑賞しませんか?と提案。
K先生は
「そんな必要無いですよ。午後からは合わせしましょ。ちゃんこ先生、時間がありませんよ。」
と言われて子どもたちには申し訳なかったのですが、言われた通りにしました。
その頃からでしょうか。ことある事にK先生から指導についてのアドバイスが多くなりました。
「ちゃんこ先生、ちょっといいですか??」
そんな呼び出しがほぼ毎日あり、リズムや音の出し方等、私の音楽感覚についてのダメ出し。ちなみにK先生は芸体系の教科ではありません。吹奏楽の経験が豊富なだけです。
しかし、私自身、容量は悪い方なんです。なのでこれはアドバイスだ。ちゃんと受け入れるべきだ。と言い聞かせていました。
それでも悔しかったので、指揮の練習を更に重ねました。
そうこうしていると、体調や精神に変化が現れてきました。
まず酷かったのは肩凝りです。元々肩凝りには悩まされていましたが、最終的に左半身が痺れるほど肩が凝ってしまいました。
次に脱毛。頭皮が真っ赤になり、髪の毛の量が激減しました。主人から心配され病院行き、検査しましたが不明でした。
そして、生理不順。PMSによる情緒不安定。これはもう主人にたくさんの迷惑をかけてきました。感情の沸点が低くなり、泣く、喚く、叫ぶ、自傷行為をする。とにかく酷かったです。実際に婦人科に行ったところ、右側の卵巣がピンポン玉大くらいに腫れていました。これに関しても検査しましたが不明でした。
更に、除湿のために冷房をきかせた音楽室に籠りっぱなしだったため、真夏の暑い中でも長袖で過ごさなきゃ居られないほど冷え性になってしまいました。サウナに行っても全く改善されませんでした。
そして、風邪を引きやすく、月イチのペースで風邪を引いていました。
最後に困ったのが不眠でした。毎日明日を迎えるのが怖く、寝れませんでした。寝れても金縛りにあったり、うなされたり、歯ぎしりしたり、夢遊病みたくなったり……。
それらの不調が原因か分かりませんが、仕事におけるケアレスミスが非常に多かったです。
この他にも原因不明の体調不良が多くありました。
これについて親に話すも、「ケアレスミスはあんたが集中力に欠けてるからだ。体調不良も精神的なものからくるんだから、根性が足りないだけだ。お父さんだって毎日学校で仕事しているんだぞ」といわれるだけでした。
この頃から親と連絡を取らなくなりました。
そしてまた事件がありました。
K先生から話しかけられ
「ちゃんこ先生、成績のことなんだけど、本当にこの成績であっているの?大丈夫なの?」
と言われました。
ちょうど通知表の時期でしたので、3年生の担任をしていたK先生が確認したところ、K先生が思っていたのと違う成績だったそうです。
ちなみにK先生は芸体系の教科ではありません。
芸体系は曖昧なところが多かったのですが、私はしっかりと考えて付けていましたし、成績ソフトに乗っ取って付けていたので大丈夫だと思っていました。
私の授業では基本的に生徒の態度が良く、歌のテストも平均的に良いものできたし、筆記テストも高得点の子が多かったです。
そのため、ほかの授業であまり点数が良くない子までも高い成績になってしまったのです。
それで最初のK先生の質問に至ったのです。
この件に関しては他の先生の中でも私の成績の付け方に関して問題視していたそうで、更に言うとうちの学校だけ音楽の成績良かったりすると、地域内で格差が生じてしまい、ほかの学校のクレームに繋がる、ということもあったそうです。
私は困りました。
900人ちょっとの生徒の成績を直さなければいけなくなり、しかもだいぶ前の成績も思い返さなければいけなくなりました。
音楽の先生は私一人です。
他の芸体系の先生に聞いても「え?そんなもんじゃない?大丈夫よー」と言われるばかり。
でもそんな事を言われても成績の高い子が過半数以上示しているのでどんどん焦るばかり。
たまらずに1年生の学年主任に相談しました。
最初は「別に高いのは良いじゃん。大丈夫大丈夫。」と仰っていたものの、実際の数字を見ると「これは……」となりました。
そして、流石に1人では期限までに間に合わないとなり、校長先生に相談。
私もかなりテンパってしまっており、説明もしどろもどろ。前後の辻褄があわず、言い訳のようになってしまい、自分で何を言ってるのか分からなくなるほど説明があやふやなものでした。
それにたまらず、校長先生は私に対して疑念を抱き、警察並みの尋問体勢に。
この時私はもう頭が回らなかったです。
とにかく、期限までに大急ぎで空き時間を使って済ませることが出来ました。
この時、給食もろくに取らず作業を行っているのを覚えてます。
そして、ここでまた先生方に迷惑をかけてしまったので職員朝会で2度目の謝罪をしました。
さらに苦難は続きます。
この通知表事件の間には文化祭で合唱コンクール(以下合唱コン)の準備期間でもありました。
合唱コンでは私は合唱コンの運営と合唱コン実行委員の指揮をしていました。
初めての合唱コン運営。私にとって歌は私自身と言っても過言ではない位の存在ですので、熱が入りました。そのため、早くから準備は進めていました。
そこの学校の合唱コンの審査は他校にお願いするものとなっていました。他校にお願いする事なので、教頭先生や校長先生を通じて決めていくものだと思い、早い段階で教頭先生に相談したところ、
「え?審査員は前任者が勝手に決めてたから分からないなぁ……」
返ってきたのはそれだけでした。
私は困りました。私はこの地区に来たのは今年が初めてです。
知り合いという程の先生は1人もいません。
とにかく困ったので吹奏楽部で共演した小学校の先生と前任者に頼りました。
その先生のおかげでなんとか3人見つかりましたがギリギリでした。
審査員の件の他にも誰も合唱コンの流れを知らない。聞いても前任者のデータがあるんでしょ?それを見ればいいじゃない、と突き返されるばかり。
ちなみにこの前任者のデータの件は部活動でもよく言われていました。文章の作成の時など、ここどうしたらいいですか?と聞いても、データ見たら分かるよ、としか言われませんでした。
前任者のデータを見ても正直分かりません。
前任者に何度も電話する暇もないです。
しかし、例年続いてる合唱コン。私より他の人の方が早いので先生方に頼りたかったです。
そして、留めは合唱コンの練習です。
読者の皆様は合唱コンのとき、練習では音楽の先生に来て欲しかったですか?
私は音楽の先生が来ると質問しまくりでした。担任の先生も音楽の先生に頼っていた記憶です。
しかし、周りの先生方は私には相談しませんでした。
私ではなく、合唱部の顧問の経験があったQ先生にほとんどの担任の先生が頼っていました。もちろん、それを見ていた子供たちも私ではなくその先生を頼りにします。
そのおかげで私の仕事は運営のみで本来の合唱指導の仕事は全くありませんでした。合唱の練習のときは職員室にいることが多かったです。
勿論、その間も土日の部活動はありましたので、休まずに毎日学校に出勤していました。
そうこうしているうちに、なんとか文化祭、合唱コンクールを終えることが出来ました。
先生方からお疲れ様でした、と言われましたが私は
「Q先生の力もあってなんとか出来ました。本当に有難かったですー。」
と、謙遜のつもりで言いましたが、周りの空気は変になるばかりでした。
おそらく、私の謙遜は嫌味にしかとられなかったんですね。仕方ありません。
そして、久しぶりの連休。
主人と旅行に行きました。
そこで、
「私ね辞めようと思ってたの。でもね、やっぱり教師という仕事が大好きなの。だから今回の教員採用試験ダメだったら十勝以外の所に転勤しますって伝えようと思う」
という話をしました。やはり、傍で今までのことを見ていた主人も私の精神衛生が良くないということに気がついていたそうです。
ただ、黙って頷いて分かってくれました。
そして、連休明け、吹奏楽部の定期演奏会のための保護者会がありました。
そこで、部長の親御さんと、3年生の親御さんからある事を言われました。
「あのですね、お話があるんです。定期演奏会の指揮をちゃんこ先生ではなく、K先生にして頂きたいんです。」
頭が真っ白になったので、言い分はあまり覚えていませんが、内容は以下の通りでした。
- 指揮と子供たちの息があっていない
- 私より以前まで居たK先生の方がいい
- 子どもたちとしてはK先生が第一顧問なのか、私が第一顧問なのか分からない状況である。
……と言われた記憶までしかありません。ここからの記憶はまだ蓋がされています。
私はとにかく聞くことしか出来ませんでした。泣くことすらも言い返すことすらも出来ませんでした。
その日はそのまま終わり、帰りました。
帰ってからも泣けませんでした。何も感じませんでした。
次の日、土曜日でしたが、また部活がありました。そして私は音楽室に向かおうとしましたが、一向に足が動きません。
音楽室に迎えなくなりました。
K先生に事情を話しましたが、
「ちゃんこ先生、耐えるしかないよ」
としか言われませんでした。聞いていた他の先生も同じことしか言いませんでした
その日は1度も指揮を振らず、K先生に任せていました。
そして月曜日。10月10日でした。1年半経った今でも忘れません。
ついに家から出れなくなってしまいました。
たまたま主人が休みだったので、その日は教頭先生に事情を話し、休ませてもらいました。
そして私はようやく精神科に行く決意をしました。
そこで言われたのが
でした。
そこからは休職の手続きや診断書、全て主人がやってくれました。
私はその日からもう二度と教壇に立つ勇気が無くなってしまいました。
・第2の人生を1年過ごして
その後、私は対人恐怖症にもなり、家の外に出ることも全く出来なくなりました。
そして、十勝地方を離れ、実家に戻りました。
その間、主人は退職の手続き、年末調整の提出など、学校のやり取りを全てやってくれました。
そして、私はまたD市に戻ることを決意します。
というのも、主人と私にとってD市は
- 空気が澄んでいて、アレルギーの症状が少ない
- 車が無くても主人が移動出来る、という土地柄
- そして何よりも大らかな人柄、安定した人間関係
という3つの利点があったのと、主人にとってまた新しい人間関係を作るよりは、前の職場で余裕を持って仕事をして欲しい、と思いD市を選びました。
そして、1月15日。D市に移住をしました。
そこから私は2月からコンビニ店員として働き、第2の人生を歩んでます。
第2の人生を歩んでみて、最初は
「なんで私こんなことしてるのだろうか」
「私は今やりたかったことを全くやれてない」
なんてネガティブに捉えていました。
でも、いつでもずっと笑っているチーフ、優しく丁寧に教えてくれる先輩、個性的な先輩に囲まれて私は好きなことを好きなだけやれる環境に身を委ねることの楽しさを見つけました。
今でも教員として働く願望はあります。
無いなんて大嘘言えません。
でも、好きなゲームをしていたり、美味しいくご飯を食べている主人の姿を見ていると、正直このままでもいいかなって思ってしまいますw
社会人になって2年半、主人にはメンタル面でも家事の面でも助けてもらいました。
本当に感謝しています。
これからは私が助ける番だから、好きなように過ごして欲しいな。と思います。
いつか、余裕が持てたらこの経験や知識を生かせるような活動が出来たらいいな、なんて考えてています。
ところで、なんで今日こんなことを書いたかと言うと、数日前に二校目で出会った用務員のおばさんが来店したんです。
その人は私の事を娘のように可愛がってくれていました。
2度お会いしているのですが、1度目は、まだ精神的に回復していなくて、まともに話せなかったんです。
でも数日前、子供たちのことも含めてちゃんと目を見て笑顔で話せました。
自分でも驚いてます。小さなことでしたが、凄く嬉しかったです。
そして、今週は二校目で知り合った1年生たちが卒業します。
高校生になったら私が住んでいるD市に来る子もいます。
来店した時あの子達に笑顔で会いたいですね。
みんな、卒業おめでとう。
そして、高校入学おめでとう。
元気で純粋な君たちでいてくださいね。
では長い長いお話に付き合っていただき、ありがとうございました。
ここまで読めた人はほとんどいらっしゃらないかと思いますw
では、今日はこの辺で。
またの投稿でお会いしましよう🙌